潜る

 あのね、あの日々から五年が経って、私たち何が変わったんだろうって。
 今朝、いつものように出かける準備をしていて、大きなデスクの傍らに立って、ふと他人のiBOOKを見下ろしたらミュージックリストの中にひとつだけ「シャングリラ」が入っていて、私は勝手にその曲をプレイして、少しだけ引いた遮光カーテンの端から白い朝日の差込む大きなデスクの傍らに立って、ライブバージョンの、電気GROOVEの「シャングリラ」を聞いたんだ。昔の曲。
 職場に着いて、いつものように事務所を走り回って、備品をロッカーに調べに行って、ロッカーを開けて、少し上の棚のものを引っぱり出そうとしたとき、五年前に聞いた、歌、みたいなのが聞こえた。誰も知らないかもしれないけど、五年前の昔はよく知られていた人の日記で。その日記のこと思い出した。日記にはタイトルがついていて、その日のタイトルは「1/2〜愛の才能〜」っていうのだった。それを、どうしてか大体のところ記憶できていて、 落ちた! っていうフレーズが印象的なその日の日記のこと、それを読んだ当時はそう感動するようなものではなかったはずなんだけど、私は今日それを思い出したとき、胸が苦しくなったようにせつなくて、なんも関係無い、まああの、五年前の生活、とは別世界みたいな「職場の事務所」ってものの中で、ひとりで笑ってしまったんだ。今朝のように。昔の歌を、聞いたときみたいに。胸が苦しいような幸せのような、声なんて出ないけど口だけは勝手に泣き出す直前のように笑えてきてしまう。昔の歌を聞いたのと、本当に、おんなじ気持ちだった。
 その人は自分の文章のことを歌だって言っていたんだけど、私は文章を歌と考えるっていう構造が自分はそうした意識で文章を書くことが無いからよくわからなくて、深く共感することは無かったんだけれども、今日そんなふうにその人の昔の文章を「昔の歌」みたいに思い出してしまうという体験をして、その人が言ったことがわかったのだった。そうか、それは歌だったんだねって。
 そして私が自分の文章を書こうと思うときに、私は文章を絵だとおもって書いている。絵画のような二次元の絵ではなく、眼前にきらきらと広がる、広がりと奥行きと、時間を持った、世界のような絵だ。あなたは眼前のディスプレイに目を奪われ、そして今もちろん見開いているにもかかわらず「もう一度、目を開いたような」感覚を覚える。そのとき世界が切り替わり、あなたはすでに私の描いた世界の中にいるのだ。あなたはある長い廊下に立つ。奥行きを持ったその通路の壁、壁にドアのように整然とディスプレイが埋め込まれて光っている。内容なんかじゃなくてディスプレイこそが高性能であるために、ありふれた光景がありえないくらい綺麗に映る。沢山の光景を提示するようにして私は文章を書きたい。